日本一の温泉旅館を目指して~全てに「一流」を自負して~
有馬の森に抱かれ、
約六万坪の広大な土地、
自家泉源で、
名湯有馬の金泉を味わう。
当時も今も変わらぬ、
愛される温泉宿。
夢とロマンを追い求めた、
夢の途中。
創業へのあゆみ
金井重要工業株式会社
二代目社長 金井慶二
戦後間も無い昭和二十七年、繊維の機械部品を製造しているモノづくりの二代目社長が、名湯有馬温泉で、取引先を接待する迎賓館を作れないかと想いを巡らせていた。
当時、有馬温泉で自前の泉源を持つ旅館は一軒もなく、すべて神戸市等の泉源からの供給。
他にはない「自家泉源を有する旅館」の実現にこだわった。この構想が七〇年続く古泉閣のスタートとなった。
源泉掘削への
不運と強運
昭和28年1953年
温泉湧出の為に、多額の資金を投じ、ボーリングを実施。
しかし、温泉は湧き出なかった。引き続き何としても自家泉源をと手を尽し、昭和28年暮れに太古橋近くの泉源を購入。その後、法改正により泉源の売買は禁止となり、民間のボーリングも認められなくなった。金井慶二の運の強さと迅速な取り組みが、今日の古泉閣の基盤をつくった。
古泉閣開業
昭和31年1956年
敷地内から湧き出るのは、含鉄強塩泉。現在有馬温泉で「金泉」と呼ばれる赤褐色のお湯である。
古泉閣は豊富な温泉を本格的な岩風呂で楽しめる、と多くの人を魅了することとなった。
有馬の地に有馬唯一の自家泉源を持つ料理旅館として開業。古泉閣独自の「茶懐石」を提供するなど、開業当初から有馬でも一目置かれる存在となった。
真の一流旅館へ
昭和33年1958年
狙いどおりの超高級旅館としてスタートした古泉閣であったが、「日本一」といわれる旅館をめざす金井慶二は、まだまだ満足してはいなかった。 ダムの開発計画により岐阜県白川村が水没することになり、そこにある合掌造りの建物を移設し、角正8代目茂助を招聘。飛騨高山の精進料理の提供を開始。有馬温泉唯一の本格的な飛騨高山の精進料理「慶月」が完成した。
芦有道路と「新有馬」構想
昭和36年1961年
当時は芦屋から六甲迂回路を通り1時間以上掛かった。有馬をもっと身近な存在にと、「道がなければ道を作れば良い」と芦屋と有馬を繋ぐ、芦有道路を開通。開通式に高松宮宣仁殿下を始めとする名立たる方々にご出席頂いた。
開業15年目の新たな試み
昭和45年1970年
開業15年を迎え、施設の一新と、客室増の為、本館を建て替え(現在の本館)。当時の有馬で一、二の大きさを誇る240畳大広間を携えた。
灰燼に帰した合掌造り
昭和48年1973年
慶月合掌造りお客様のタバコの不始末により全焼。合掌造りの中に展示してあった貴重な甲冑や骨董品も灰になってしまった。
株式会社古泉閣
昭和50年1975年
「一度は行きたい古泉閣」。当時、あちこちで聞かれた言葉である。眺望、施設、庭園、料理等々、三拍子も四拍子もそろった旅館として、その地位を確立した。1975年には金井重要工業の旅館部門から独立し「株式会社古泉閣」となった。
精進料理「慶月」建設
昭和63年1988年
合掌造りの消失以来やめていた精進料理の提供を復活。多数の要望に応えて精進料理専門料亭「慶月」建設。
震災・復興
平成7年1995年
阪神大震災の被災により木造建築を中心に大きな被害を受けた。「一日も早く落ち着ける場を」との声に応え、いち早く復旧させただけではなく、リニューアル工事も加味し年内に全館完工を果たした。
新たなプロジェクト
平成9年1997年
新たな魅力の創出として、有馬温泉で唯一のログハウス型の宿泊施設、「ザ・ロッジ・アリマリゾート」をオープン。コンセプトは、 別荘気分が味わえる緑の中のプライベート空間の提供。若い方にも、ファミリーにも楽しんで頂ける”温泉に入れるロッジ”は、長い歴史を有する有馬温泉でも初の施設となった。
大浴場 八角堂
平成9年1997年
古き良きの岩風呂とは対照的に金泉の露天風呂を有した大浴場「八角堂」が完成。
新たな様式 価値の創出
令和3年2021年
新型ウィルスにより、旅館など旅行会社などに全般に大きな打撃を受ける。
新たなスタイルに対応するべく試行錯誤が繰り返す。
コロナ禍で大きな打撃を受けるも古泉閣の信念である新たな価値の創出として、スイートルーム(コネクティングルーム)完成。